今山遺跡(熊野神社) [お寺・神社など]
元寇防塁(長垂海浜公園地区)から元寇防塁(今津地区)へ向かってると、左側に、以前から気になっていた神社の鳥居があります。
今宿交差点から県道54号線を約1kmほど行った場所の左側にあります。ここは、駐車場がなく、この前を通るたびに寄って見たいと思ってた神社で、今回は、バイクだったので寄り道をしてしまった。
今宿交差点から県道54号線を約1kmほど行った場所の左側にあります。ここは、駐車場がなく、この前を通るたびに寄って見たいと思ってた神社で、今回は、バイクだったので寄り道をしてしまった。
国の史跡 今山石斧製造所跡の石碑と案内板です。
今山遺跡
今山は、玄武岩と花崗岩からなる高さ84mの山で、山全体が国指定史跡です。今山遺跡でつくられた石斧は、弥生時代の初期から中期(約2400年から2000年前)にかけて、伊都国の交易品として北部九州一帯に広く流通しました。最近の調査では縄文時代前期から中期頃(約6000年前)の土器や石斧も発見されました。
また、海側では塩をつくり、平安時代の港湾施設もありました。参道を登っていくと神功皇后伝説が息づく熊野神社があり、東展望広場からは、生の松原から今津にかけての海岸線、西展望広場からは、可也山などの山々と糸島平野が眺望できます。
今山は、玄武岩と花崗岩からなる高さ84mの山で、山全体が国指定史跡です。今山遺跡でつくられた石斧は、弥生時代の初期から中期(約2400年から2000年前)にかけて、伊都国の交易品として北部九州一帯に広く流通しました。最近の調査では縄文時代前期から中期頃(約6000年前)の土器や石斧も発見されました。
また、海側では塩をつくり、平安時代の港湾施設もありました。参道を登っていくと神功皇后伝説が息づく熊野神社があり、東展望広場からは、生の松原から今津にかけての海岸線、西展望広場からは、可也山などの山々と糸島平野が眺望できます。
熊野神社
祭神 伊弊冊命 速玉男命 事解男命
由緒
一、亨保十二年(一七二八年)拝殿改築の時、国主黒田継高公がその用材一切を寄進した。
二、神功皇后が三韓から帰朝の後、紀州熊野から、勧請されたとの言い伝えがある。
今山を昔は、夷魔山と書いたが、それは昔、彦火々出見命が、この山上から弓で夷魔を射平げられたからだという……‥
また別名を弓張山とも言った。その吉例により毎年九月十二日(旧暦)の大祭には、山内の杉や檜木で弓を作り神前に備えていた。
祭儀 例 祭 十月 十二日
祈年祭 三月 十二日
感謝祭 十二月 十二日
月次祭 毎月 十二日
祭神 伊弊冊命 速玉男命 事解男命
由緒
一、亨保十二年(一七二八年)拝殿改築の時、国主黒田継高公がその用材一切を寄進した。
二、神功皇后が三韓から帰朝の後、紀州熊野から、勧請されたとの言い伝えがある。
今山を昔は、夷魔山と書いたが、それは昔、彦火々出見命が、この山上から弓で夷魔を射平げられたからだという……‥
また別名を弓張山とも言った。その吉例により毎年九月十二日(旧暦)の大祭には、山内の杉や檜木で弓を作り神前に備えていた。
祭儀 例 祭 十月 十二日
祈年祭 三月 十二日
感謝祭 十二月 十二日
月次祭 毎月 十二日
い、今山の石斧で昔ひげをそり
(筑前今宿歴史かるた 一番)
(筑前今宿歴史かるた 一番)
さっそく階段を上がって見る事にしました。
最初の階段を上がって左側へ進むと、
赤い鳥居の「新造
稲荷 大明神」がありました。
稲荷 大明神」がありました。
浄財の下には、こんなお願いが書かれてありました。
賽銭箱を開けている人へ
この賽銭箱には地元の人達が、家族の健康、幸せ、孫や子供たちの健やかな成長を願って、ご芳志して頂いているものです。
皆、少しでも世の中がよくなるように神様にお祈り、お願いされているものです。
この賽銭箱を開けて、ご芳志のお金を手にしている人にお願いします。
皆、一生懸命働いた一部をご芳志されています。お願いですから手をかけないで下さい。そんなお金を取って、貴方は何ともないのでしょうか?
気特ちがわかりません。
どうぞ取らないで下さい。お願いします。
氏子
この賽銭箱には地元の人達が、家族の健康、幸せ、孫や子供たちの健やかな成長を願って、ご芳志して頂いているものです。
皆、少しでも世の中がよくなるように神様にお祈り、お願いされているものです。
この賽銭箱を開けて、ご芳志のお金を手にしている人にお願いします。
皆、一生懸命働いた一部をご芳志されています。お願いですから手をかけないで下さい。そんなお金を取って、貴方は何ともないのでしょうか?
気特ちがわかりません。
どうぞ取らないで下さい。お願いします。
氏子
ちょっと、これを読んでビックリしました。
神社のお賽銭を取ってる罰当たりな方がいるんですね。
普通に考えると、絶対できない行為ですよね。
ちょっと、嫌な思いがしました。
平和の礎と彫られたお墓?がありました。
その横には、灯篭とお地蔵様が祀られてありました。
さらに階段を上がって上へ行ってみることにしました。
幾つ物の鳥居が並んでるのが見えます。
鳥居の額には「熊野神社」と彫られてました。
かなり急斜面の階段でした。
階段の途中には、鳥居が建っていた跡がありました。
途中には、大きな木がたってました。
階段を上りきった場所からは、
今津湾と能古島が望めました。
綺麗な景色でした。
灯篭もありました。
さらに階段を上がった場所から、
振り向いて見た様子です。
そこから左へ行く道があり、
そこには、小さな建物がありました。
2体の仏像?が祀られてありました。
何にも説明のような物がなかったので、
何だか分かりませんでした。
そこから少し上がった右側にも、
小さなお堂のようなものが建ってました。
柱に「薬師堂」と書いてありました。
こちら側も、2体の仏像?が祀られてありました。
そこから竹の木々の隙間から景色が望めました。
福岡市の街並みが望めました。
小戸のノートルダムマリノアも望めました。
今宿の街並みも望めました。
もしかすると高台からも綺麗な景色が望めそうな
そんな予感も(^^_)ルン♪。
さらに上へと参道が伸びていました。
先へ進むと竹林の薄暗い森の中へ入って行きます。
左側には、石が積まれた壁のようなものがありました。
さらに階段を上がっていくと、
今度は、右側に石垣が見えてきました。
太陽の木漏れ日が差し込み、
綺麗な光景だったので撮って来ました。
こちら側にも参道があったようです。
さっきの石垣は神社の石垣でした。
階段を上がると、
振り返ると、下へ続く参道がありました。
神社への上り口は2ヵ所ありました。
右側には手水舎がありましたが、
水が無くて、手と口を清めることができなかった。
ここにも、熊野神社の由緒がありました。
熊野神社
祭神 伊弊冊命 速玉男命 事解男命
由緒
一、亨保十二年(一七二八年)拝殿改築の時、国主黒田継高公がその用材一切を寄進した。
二、神功皇后が三韓から帰朝の後、紀州熊野から、勧請されたとの言い伝えがある。
今山を昔は、夷魔山と書いたが、それは昔、彦火々出見命が、この山上から弓で夷魔を射平げられたからだという……‥
また別名を弓張山とも言った。その吉例により毎年九月十二日(旧暦)の大祭には、山内の杉や檜木で弓を作り神前に備えていた。
祭儀 例 祭 十月 十二日
祈年祭 三月 十二日
感謝祭 十二月 十二日
月次祭 毎月 十二日
横浜自治会 氏子中
祭神 伊弊冊命 速玉男命 事解男命
由緒
一、亨保十二年(一七二八年)拝殿改築の時、国主黒田継高公がその用材一切を寄進した。
二、神功皇后が三韓から帰朝の後、紀州熊野から、勧請されたとの言い伝えがある。
今山を昔は、夷魔山と書いたが、それは昔、彦火々出見命が、この山上から弓で夷魔を射平げられたからだという……‥
また別名を弓張山とも言った。その吉例により毎年九月十二日(旧暦)の大祭には、山内の杉や檜木で弓を作り神前に備えていた。
祭儀 例 祭 十月 十二日
祈年祭 三月 十二日
感謝祭 十二月 十二日
月次祭 毎月 十二日
横浜自治会 氏子中
内容は、下の道路沿いにあったものと同じでした。
狛犬です。
神社に訪れると必ず撮ってきます。
神社によっては、変わった狛犬が鎮座してるので、
それを見るのも楽しみの一つになっています。
熊野神社です。
思ってた以上に立派な神社でした。
安全祈願をして行きました。
内部の様子です。
扁額も立派なものが掛かけてありました。
日露記念と彫られた台座?があります。
昔は、この上に何かあったのでしょうか?
ここにもありました。
罰当たりな方が居るのですね。
いくら生活に困っていたとしても、
神社のお賽銭を盗むなんてことは、
人として絶対やってはいけないことですよね。
境内には大きな木もあります。
こちら側にも、立派な石垣がありました。
熊野神社の本殿です。
右側に上へ上がる階段がありました。
階段の途中から見た境内です。
鳴神社と彫られた石碑がありました。
他にも神社があったのでしょうか(・_・")?。
さらに上へ上がっていくと、
宝石!見っけ!!(^^_)ルン♪。
展望台のような場所がありました。
ベンチもあって、ここからの眺めは素晴らしいです。
後で調べてみると、ここには、「東展望広場」と「西展望広場」が
あるようです。
何かの石碑が壊れて横たわってました。
字が彫られていたので踏まないようにしました。
県道54号線は、1本道で抜け道が先にしかなく、
夕方になると渋滞する場所ですね。
学生の頃、よく泳ぎに行ってた芥屋海水浴場の帰りは、
なかなか進まず大変でした。
今は、別のルートで帰ってます。
今宿 横浜交差点付近から渋滞が発生します。
学生の頃、横浜だぁ~って喜んでました。
今津方面の眺めです。
奥に見える島は能古島だと思います。
島のような森には、
白い鳥居が見えます。
いつも気になってた場所で、後で行ってみようと思いましたが、
立入禁止の立て看板があったので行かなかった。
後で調べると「八大龍王神社」だということが分かった。
浜崎今津活魚出荷施設周辺です。
左にも立派な建物の屋根が見えます。
由緒あるお寺なのかな?っと考えながら、
帰りに寄ろうと思ってましたが、通り過ぎて帰ってしまいました。
福岡市方面の眺めです。
うわぁ…すばらしい!眺めでした(^^_)ルン♪。
奥に見える辺りが博多湾で、
手前に見える塔のような建物が、
ノートルダム マリノアです。
福岡タワーやヒルトン福岡シーホークにドームが望めます。
↓
アップでも・・・。
東区のアイランドタワースカイクラブやキリンさんも望めました。
きっと、ここからの夜景も綺麗だと思います。
いつか、夜景を撮りに訪れようと思います。
今度は、反対側から下ってみることにしました。
こちら側にも広場がありました。
後で調べると「東展望広場」のようです。
そこに解説版がありました。
国指定史跡
今山遺跡
今山は糸島平野の東の端に位置し、玄武岩と花崗岩からできた標高82mの山です。1924(大正13)年に中山平次郎博士によって、玄武岩を使って石斧の製作を行なった山として紹介されて以来、多くの調査や研究が行をわれた有名な遺跡です。製作された石斧は、主に太形蛤刃石斧と呼ぼれる大型の磨製石斧です。今山では玄武岩を割り、打ち欠いて全体の形を整える作業を行ない、磨きあげるのはそれぞれの「むら」で行なったようです。
今山で製作された石斧は、弥生時代前期前半から中期(今から約2300~1900年前項)にかけて、現在の福岡県・大分県・佐賀県・熊本県にかけて行き渡っており、今山のある地域(後の「伊都国」)が他の地域に商品として供給したものと考えられます。
以上のことから、今山遺跡は弥生時代の石斧製作技術と交易を考える上で、重要な遺跡であると言えます。
文化財を大切にしましょう
福岡市教育委員会
今山遺跡
今山は糸島平野の東の端に位置し、玄武岩と花崗岩からできた標高82mの山です。1924(大正13)年に中山平次郎博士によって、玄武岩を使って石斧の製作を行なった山として紹介されて以来、多くの調査や研究が行をわれた有名な遺跡です。製作された石斧は、主に太形蛤刃石斧と呼ぼれる大型の磨製石斧です。今山では玄武岩を割り、打ち欠いて全体の形を整える作業を行ない、磨きあげるのはそれぞれの「むら」で行なったようです。
今山で製作された石斧は、弥生時代前期前半から中期(今から約2300~1900年前項)にかけて、現在の福岡県・大分県・佐賀県・熊本県にかけて行き渡っており、今山のある地域(後の「伊都国」)が他の地域に商品として供給したものと考えられます。
以上のことから、今山遺跡は弥生時代の石斧製作技術と交易を考える上で、重要な遺跡であると言えます。
文化財を大切にしましょう
福岡市教育委員会
こちら側からの眺望は、
気が生い茂って何も望めませんでした。
以前は、可也山などの山々と糸島平野が眺望できてたそうです。
時計回りに見て回り、
境内へ戻ってきました。
途中には、
崩壊した狛犬や鳥居の扁額?などが、
乱雑に置かれてました。
昔、地震か災害で崩壊したのでしょうか?
左側から見る本殿です。
その傍には、
変てこな物もありました。
何かが立ててあった形跡がありました。
いろいろな場所に崩壊したものが置かれてありました。
左から見た境内の狛犬に灯篭?です。
ひっそりとした神社だと思ってましたが、
結構住民の憩いの場所となってるようでした。
今度は、真っ直ぐに見える参道を下ってみました。
左に、ちょこんと人と白い犬が見えますよね。
大きな犬でした(◎_◎) 。
日差しに照らされ緑が映え綺麗だったのでパシャ!
まだまだ、下へ続く階段!先が見えません。
途中、下って戻ることを考えると、そうしようかな?って、
迷いましたが、次いつ来れるか分からないし・・・。
っと、結局、下の鳥居まで下ることにしました。
ここにも、崩壊した鳥居が横たわってました。
まだまだ、続く階段・・・(^。^;)フウ。
途中、右側に高炉のようなものが置いてありました。
こんな場所に・・・なぜ?。
まだまだ、下に続く階段です。
これをまた上がって戻ると思うと(^。^;)フウ
この鳥居から、右側に折れる道がありました。
その方角へ進んでみると、
小さな社がありました。
右側には、奥に続く道がありました。
試しに向かって見ると、西側から上がった階段へ着きました。
ほっ!としました。
また、あの階段を上がらなければならないんだ!っと思ってたから・・・。
扁額には「大師観音 今山」とありました。
国指定史跡
今山遺跡
今山は糸島平野の東の端に位置し、玄武岩と花崗岩からできた標高82mの山です。1924(大正13)年に中山平次郎博士によって、玄武岩を使って石斧の製作を行なった山として紹介されて以来、多くの調査や研究が行をわれた有名な遺跡です。製作された石斧は、主に太形蛤刃石斧と呼ぼれる大型の磨製石斧です。今山では玄武岩を割り、打ち欠いて全体の形を整える作業を行ない、磨きあげるのはそれぞれの「むら」で行なったようです。
今山で製作された石斧は、弥生時代前期前半から中期(今から約2300~1900年前項)にかけて、現在の福岡県・大分県・佐賀県・熊本県にかけて行き渡っており、今山のある地域(後の「伊都国」)が他の地域に商品として供給したものと考えられます。
以上のことから、今山遺跡は弥生時代の石斧製作技術と交易を考える上で、重要な遺跡であると言えます。
今山遺跡
今山は糸島平野の東の端に位置し、玄武岩と花崗岩からできた標高82mの山です。1924(大正13)年に中山平次郎博士によって、玄武岩を使って石斧の製作を行なった山として紹介されて以来、多くの調査や研究が行をわれた有名な遺跡です。製作された石斧は、主に太形蛤刃石斧と呼ぼれる大型の磨製石斧です。今山では玄武岩を割り、打ち欠いて全体の形を整える作業を行ない、磨きあげるのはそれぞれの「むら」で行なったようです。
今山で製作された石斧は、弥生時代前期前半から中期(今から約2300~1900年前項)にかけて、現在の福岡県・大分県・佐賀県・熊本県にかけて行き渡っており、今山のある地域(後の「伊都国」)が他の地域に商品として供給したものと考えられます。
以上のことから、今山遺跡は弥生時代の石斧製作技術と交易を考える上で、重要な遺跡であると言えます。
下の鳥居まで降りてきました。
入口は2ヶ所ありました。
運動不足なのか?結構疲れました(^。^;)フウ。
2014-03-16 15:51
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